伊勢旅行記 第3章 〜本当に素材を活かす料理とは〜

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部屋食ではなく食堂で、とのことだったから、てっきり他の家族連れの様子なんかが見えるがやがやとした雰囲気を想像していたのだけれど、違った。
完全に個室で料理が提供され、それは「気を遣う必要のない部屋食」と言ってもよさそうなものだった。

高級そうな手漉きふうの和紙に品書きが書かれ、その名前からは、どれもこれもが手の込んだ料理を連想させた。八月は初秋と位置づけられ、やはりいい店は季節を重んじるのだなと感じる。サービスで、瓶ビールと烏龍茶が予めついている心遣いもニクい。人は、オプションで追加料金を払っていくよりも、予め払った料金に内包されているサービスが期待を超えている時のほうが、感動しやすいものなのだろう。

わたしは、料理が順繰りに少しずつ出てくる方式を、個人的にはあまり好まない。いちいち気を遣うし、食べるペースも調整しなくてはならない。そういう点で、フレンチレストランとは縁遠い人間である。おまけに、この日のわたしはもう意識を失う寸前と来ている。

結果的に言うと、夕食はこれらのマイナス要素を全部差っ引いても余りあるくらいの内容だった。贅を尽くした、というわけではないのだが、新鮮な材料で丁寧に作られた、味の濃すぎないわたし好みの和食が並んだ。
妹には物足りなかったようだけれど、ほんの少しで十分なわたしにとって、飾りすぎず控えめなそれらは、ありがたい料理だった。かと言って質素なわけでは決してない。

伊勢海老、松阪牛など、土地ならではの豪華な食べ物が、素材の味を活かす調理法で提供される。素材をこねくり回すのではなく、正直に素材の味を引き出す料理。
それでこそ、料理人の腕が試されるのだと、わたしは思うのだ。
忘備録として、ここに品書きを紹介しておきたい。

伊久のお品書き

正直言って、これは何だ? と思うような名前や、読めない漢字もいくつもあった。これを教養の無さと呼ぶか、庶民的な女と呼ぶかはお任せする。ただ、良くも悪くも舌の敏感さには自信がある。化学調味料なんかは、苦くて食べられたものじゃない。そういう点で、この夕食は、珍しく「疲れない」食事だったように思う。

《一の膳》
座付 茶碗蒸し・百合根・梅
優しい味の茶碗蒸しに、とろりとした薄味の餡がかかっている。茶碗蒸しで「す」が立たないことは、プロとしては当たり前かもしれないけれど、その難易度を知っているだけに感服する。

献上土器盛
其の壱 胡桃味噌和え
其の弐 枝豆岩石揚げ・川海老素揚げ・辛子蓮根
其の参 鶏松風・床節旨煮
其の四 とろ湯葉雲丹
旅先では、体調を崩さないようにとても気を遣う。その他のことが楽しめなくなるのが、怖い。だから、揚げ物なんかは極力避ける。申し訳ないし、もったいないとは思うけれど、わたしなりの旅の楽しみ方なのだと割り切っている。その代わりに、わたしのところにたくさん湯葉が回ってきた。家族と行くと、こういうことができるからいい。どれも初めて食べるような味で、これはいったい何なのだろう? と回りの悪い寝ぼけた頭で考える。知らないものを口にするのは、情報処理にとてもエネルギーを使う。わたしはそういう脳の仕組みなのだから、仕方がない。けれど、こうやって新しい世界を知っていくのは、楽しい。なんと言っても、今日は特別なのだ。どこに自分のエネルギーを使うのかは、自分で決められる。

一の膳

先椀 鱧真丈
真丈。家ではなかなか作ることのできない、いや、さほど難しくはないのだろうけれど、わたしだけがあまりに好きすぎるために、法事の時などにしか口にできない、真丈。鱧の真丈は初めて食べる。卵白とすり身を混ぜて、茹でてあるそれを、吸い物のつゆといただく。わたしは、この「真丈」という食べ物を目当てに、わざわざ和食店に行きたいくらい、こいつが好きなのだ。たぶん、こういう特別な時に食べるもの、という印象が、より魅力を上げているのだろう。ふわりとした口当たりは、団子よりもはるかに柔らかく、魚の味がする。普段は高くて手が出ない鱧の風味も、同時に知ってしまう。

切飯 鶏牛蒡
切飯、とはなんだろう。一旦ここで小休憩、ということだろうか。ほんのひとくちだけのおにぎりのようなものが出される。和食におけるそれぞれの役割は、深い。

《二の膳》
造里 鯛・鮪・鰆
お造りはあまり好きではない。魚は好きなのだけれど、家族があまりにも刺し身や寿司が好きで、正直食傷気味なのだ。贅沢すぎることだけれど、それなら食べないでいるべきだ、と家ではあまり箸をつけないようにしている。それにしても、鰆の造りというのは珍しい。生の魚はそのまま食べても海の味が濃くて、ずんと来る。すでにお腹がいっぱいになってくる。

煮/焼 (※どちらかを選ぶ)
(煮)芋蛸南京・煮穴子・赤ピーマン
(焼)太刀魚チーズ・烏賊の雲丹焼き
女が好きなもの芋蛸南京、と言い出したのは、一体誰だろう。蛸はさておき、確かにわたしは芋と南京をこよなく愛する。ただし、味付けは辛くないのがいい。

口替り 玉蜀黍豆腐
玉蜀黍? 家族でこれはなんと読むのだろうと言い合っていた。玉こんにゃく? いや、ちがう。とにかくなにかしらの豆腐なのだ。お酒の入った庶民たちの会話なんて、こんなものなのだ。仲居さんが来て、説明してくれる。
「とうもろこし豆腐です」
世界に満ちている謎が、また一つ解けた。

《趣肴膳》 (※どれかを選ぶ)
い、松阪牛陶板焼き
ろ、伊勢海老と平貝の陶板焼き
は、松阪牛岩塩蒸し
に、伊勢海老と平貝の岩塩蒸し
いよいよメインだ。伊勢海老を焼くことに関して、個人的にあまり良い思い出のないわたしたちは、「ろ」を除く全ての種類を制覇した。わたしは肉を食べない人だけれど、魚介類はまあ食べる。半ばしぶしぶではあるが。それでも、ぷりぷりとした本物の伊勢海老の美味しさに、仰天した。良い伊勢海老は、身が詰まっていて、噛むと弾かれるような弾力があり、それでいて固いことは決してない。普段さほど海老を好んで食べることはないが、美味しいものは美味しい。人間の舌をだますような美味しさではなく、本当に美味しいものがわかる人間でありたいと、常々思う。

に、伊勢海老と平貝の岩塩蒸し
伊勢海老と平貝の蒸し物

い、松阪牛陶板焼き
松阪牛

止肴 鰻ざく
ああ、鰻ざくね、と母は言う。うざく、と読むのか。この人は、何でも美味しいと言ってばくばくと食べる人だけれど、結構「ホンモノ」がわかる人だ。普段、大雑把で豪快な母親を目にしているだけに、こんな風にふっと教養ある面を目にすると、育ちの良さを思い出す。そうだ、この人は、わりにお嬢様として育てられていたはずだった。そういえば、お中元だとか、おせち料理だとか、そういう点において母はほとんど完璧と言ってもいいくらいの活躍を見せる。
きゅうりの酢の物の上に鰻が乗ったそれは、確かにいい箸休めになった。

《〆膳》 (※どれかを選ぶ)
は、伊勢うどん
へ、手こね寿司・味噌汁・漬物
と、鰻茶漬
やっとここまで辿り着いた。もう、胃袋も眠気も、わたしに訴えかけることさえ諦めたように思える。時計の針は21時をとうに過ぎている。次からは、夕食は早めにしよう。家族皆でそう言いながら、〆は手分けして全ての種類を頼む。

「伊勢のうどんはまずい」
そう聞いていた。しかし、伊勢に来たのだから、伊勢うどんを食べないことには帰れない。そういうわけで、わたしの担当は伊勢うどんになった。
「まずい」という主観的感想には、必ず理由がある。うどんに対して何を求めている人が、伊勢うどんを食べた時に失望したのか。万人にとってまずいものなら、伊勢の名物はうどんにはなりえない。伊勢のうどんを好きな人も一定数いるのだ。
結果的に、わたしは伊勢うどんを好きになれなかった。それは、控えめに言ってもわたしがうどんという食べ物に期待するいくつかの要素の半分も満たしていなかった。要するにそれは、「コシという概念の欠落したぶっかけうどん」と言ったところだった。ぶよぶよとした太い麺に、醤油をかけていただく。長い時間かけて茹でられた麺は、その表面同士がくっつき合い、醤油をまぶさないことにはほぐれることすらない。そうか、これが伊勢のうどんなのか。
香川県で食べるような、「コシが命」の麺を好み、さらにはあたたかい薄味のつゆに浸かっていてほしいわたしの舌には、残念ながら合わなかった。土地には、その土地で採れるもの、人々の好み、利便性を加味した食べ物が発展する。他所から来た者の口に合うかは別にして、その文化を味わうことも、また旅ということなのだろう。ちなみに、手こね寿司と鰻茶漬は、予想通りとも言うべきか、美味しかった。

《水物》
果物 白桃コンポート・葡萄
甘味 笹くず餅

丁寧に飾られた果物とくず餅

果物と和菓子が好きなわたしにとって、ここはほとんどメインイベントのようなものだった。甘酸っぱい葡萄とほんのり甘く味付けされた桃のコンポートは、スポイルされた舌にさっぱりとした後味を残してくれたし、甘すぎない上品な味の笹くず餅は、さらりと溶けるこし餡と、わずかに塩気のある透明なくず餅のバランスが素晴らしかった。あるいは、それはそんなに褒めそやすほど絶品ではないのかもしれない。けれど、こんな素敵な空間で、こんなに贅沢な時間を過ごして、その締めくくりである甘味は、それだけでもやっぱり特別な味がした。4人のくず餅が乗った皿には、おかめの顔が描かれていた。
「全て、違う顔が書かれているのですよ」
そう言われて並べて見比べてみると、なるほどそれぞれが全然違った表情をしていた。どれも優しく微笑んでいるには違いないけれど、違う人の顔。彼女たちの表情に、裏はあるのだろうか。一枚一枚手で描かれたであろう皿を見ながら思う。ここに筆を入れた職人たちは何を込めたのだろう。そこには、職人の誇りと、彼らの遊び心と、そしておかめたちの生きた意志が見えた気がした。

ひとつひとつ顔の違うおたふく

お腹はいっぱいだったけれど、不思議と胃もたれはしていなかった。これが、わたしが思う「いい料理」なのだ。新鮮な素材を使い、シンプルに味付けをした料理は、食べる人を満足させるのは難しいけれど、胃がもたれない。現代の人たちは、濃い味を求めすぎる。自らの体を蝕みながら、素材の持つ味を作り替えていってしまう。わたしは時に敏感すぎて不便だけれど、そういう意味ではわかりやすい体を持ってよかったとさえ思う。わたしは化学調味料には慣れない。慣れることができない。それは、生きづらさと引き換えに、大切な何かを忘れないでいることができるのだと信じている。

続く↓
伊勢旅行記 第4章① 〜おもてなしと欲。夜鳴きそば〜

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