伊勢旅行記 第5章 〜早起きと伊勢のかたぱん〜

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優しく、穏やかで、ささやくような、それでいて無機質で、人工的な音がする。
『どろんこハリー』みたく、やわらかい沼にしあわせに沈んでいるわたしを、ぐいと引き上げる。夢の中でそちらに注意を向けるのと、わたしが目を開けて「4:30」という数字を見たのがほとんど同時だった。あるいは、わたしは夢さえも存在しない深い深い沼にいたのかもしれない。

いずれにせよ、それは昨夜の自分が翌日の自らに課した起床時間だった。朝の4時半。いくら早寝早起きのわたしも、ここまで早く起きることはめったにない。

「早朝参り」

それが、昨日の夕間詰めを早々に諦めたわたしたちが、次こそ体験したい事柄だった。わたしたちは、念の為に長い「やるべきことリスト」を持っていた。もちろん、それには全然従わなくてもいいのだ、という免罪符付きの。

伊勢神宮の内宮は、朝の5時に開門する。日帰りでは決して体験できないであろう、「早朝参り」。

日が沈んでからの世界がどうしても好きになれず、朝陽の昇る頃の澄んだ空気が大好きなわたしにとって、このために早起きすることは全く苦痛ではなかった。宇宙の空気は、朝の4時くらいに一度きれいにされるのだ、たぶん。

念のため、家族に声を掛けてみる。みんな、案外すんなりと起きてくれた。そそくさと支度をし、ほとんど身一つで部屋を出る。

そして、わたしたちはもちろん知っていた。例のお迎え処で、早朝参りをする客のために、挽きたてのコーヒーと軽食が用意されていることを。
「かたぱん」と呼ばれるそれは、100年ほど前から作られるようになったという、祝い事やお祭りで振る舞われる、伊勢伝統の食べもの。その名の通り、かたいパンのような食べ物。
起きがけの胃には、4人で分けあってちょうどいいくらいの大きさがあった。ほんのり甘くて、歯ごたえがある。わたし好みの素朴な味だった。ただ如何せん、こんな時間に食欲なんて湧くはずもない。薄めのアメリカンコーヒーを飲み、日が昇りかけた外へ出る。

伊勢のかたぱん
伊勢のかたぱん

続く↓
伊勢旅行記 第6章① 〜伊勢神宮の早朝参り〜

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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