伊勢旅行記 第9章 〜旅の中で、旅に出るということ〜

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伊勢旅行記 〜夏の終わりの贅沢な旅のお話〜【序章①】
伊勢旅行記 〜夏の終わりの贅沢な旅のお話〜【序章②】
伊勢旅行記 第1章① 〜日常からの旅立ち〜
伊勢旅行記 第1章② 〜伊勢神宮 外宮〜
伊勢旅行記 第2章① 〜新しい、いにしえの宿〜
伊勢旅行記 第2章② 〜消え行く緊張と現実感〜
伊勢旅行記 第2章③ 〜お風呂三昧〜
伊勢旅行記 第3章 〜本当に素材を活かす料理とは〜
伊勢旅行記 第4章① 〜おもてなしと欲。夜鳴きそば〜
伊勢旅行記 第4章② 〜言葉のお守り。ひとりの時間〜
伊勢旅行記 第5章 〜早起きと伊勢のかたぱん〜
伊勢旅行記 第6章① 〜伊勢神宮の早朝参り〜
伊勢旅行記 第6章② 〜神様へのお願いごと〜
伊勢旅行記 第7章 〜作りたての赤福とその由来〜
伊勢旅行記 第8章 〜まどろみと二度目の朝。朝食〜

いよいよ出発までの時間が迫ってくる。ここからは、残りの時間でできることを取捨選択していかねばならない。
さて、どうしようか。

何だか、心がばたばたしている。部屋も寒いし、デッキに出てよしもとばななを読もう。もう風呂はいい。そう決めた。

「足湯がおすすめよ」
したり顔でそういう母の助言に従い、少しだけ部屋の露天風呂に湯を張ることにする。

部屋にはコーヒー豆と、コーヒーミルがついていた。いささか行き過ぎているほどの設備。きっとここの創業者は、美味いコーヒーが好きなのだ。そして、いつも思いを巡らせているのだ。和も洋も欲張って、自分に思いつく限りの最高の時間をお客さんに過ごしてもらいたくて。

母が張り切ってコーヒー豆を挽き、コーヒーを淹れてくれる。濃すぎるほどの熱いコーヒーは、わたしをうまく目覚めさせる。
母親は、お風呂を全て制覇するために再び出発した。わたしは本当にあの人の娘なのだろうか。そう思うことがしばしばある。
それは裏を返せば、似ない母娘もいるのだという事実を証明することにもなる。

挽きたての豆で淹れた、美味しいコーヒー。この時間の流れに合った本。そして、心地良い温度の足湯。
これほどの贅沢が、どこにあるだろうか。いや、ない。
わたしは、高校生の頃に古文か何かで習った反語の使い方を思い出そうとした。そして、その試みをやめた。

ここで語ることは、あまりない。

気が付くと、父が窓を開けてわたしを呼んでいた。
あまりにも今の状態が気持ちよくて、すっかり自分が自分ではなくなって、わたしの精神はどこか遠いところに出かけていて、もうそろそろ出発の時間になっていたのだ。

ああ、と返事をし、うまく現実の自分に戻ってくるために、わざと体を大きく動かす。足しか浸かっていないのに、体全体がぽかぽかと温まり、額にはじんわりと汗をかいていた。

あとから思うと、この小1時間ばかりの時間が、この旅行の中でいちばん幸せな時だったかもしれない。なんて言ってしまうと、誰かを傷つけてしまうだろうか。けれど、おかげでわたしはすっかり充電が満たんになった。

よしもとばななと挽きたてコーヒーと足湯。
これ以上、これ以上のものなんてない。
よしもとばななとコーヒーと足湯

続く↓
伊勢旅行記 終章① 〜お伊勢さんには人が集まる。時の流れのこと〜

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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