【引きこもりの北欧紀行】第一章 ストックホルムとヨーテボリ 静かな再獲得の旅 その1

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Sweden Day1
 僕としても随分と思い切ったことをしたものだ。
 昔から、あれこれうじうじと考えはするものの、一旦こうと決めたらその後の行動は早い方だったように思う。
 航空券を予約したのが五ヶ月前。何事も前倒しでしなければ気が済まない僕は、その後に控える春のカナダ旅行へ発つ前にすっかり夏の予定を決めてしまった。

 あの頃僕は、何を思っていたのだろう。
 なにせ、過ぎた日のことはすっかり忘れてしまうたちなのだ。家族と昔話に花を咲かせることもままならないばかりか、数日前の友人との会話でさえロクに覚えていない。

 「前向きに生きているのさ」なんて口ではいいように言うけれど、まるで思い出を大切にしていない人間みたいに言われることもある。僕は僕なりに記憶を留めておく努力はしているのだ。ただ、すぐに頭の容量がいっぱいになってしまい、目の前で起こる現実的なものごとの処理と、勝手に頭が空想してしまう物語的なできごとの処理のために、涙を呑んで記憶をデリートしているのだ。

 そういうわけで、僕は僕がこの旅行の予約をした時に何を考えていたかなんて、綺麗すっかり忘れてしまったのだ。まるで雨の日のドライブで、注意深く窓に描いていたクマの絵を、次の瞬間手で消してしまった時みたいに。後から振り返ってみると、そこにクマの絵が描いてあろうが、難しいお経が書いてあろうが、愛のささやきが刻まれていようが、実にどうでもいいことなのだ。今やそれらは無に帰してしまったのだから。

 ただひとつ憶えていることは、なんだか少しばかり暗い気持ちでいたような気がするな、ということだ。もちろんいつも陽気でラッパばかり吹いている人間なんてほとんどいないと思うけれど、それでも平均的に僕の人生の中でも暗い時期にあたっていた気がする。ひょっとすると、夏の北欧で骨を埋めようなんて考えていたんじゃなかろうか。そう思うと、僕は昔の自分が少し怖くなり、今の自分を愛撫し、記憶がなくなったことを小さく喜ぶのだ。

 今日の日付は7月29日。世間もすっかり夏休みモードに突入し、僕は気兼ねなく空港で旅行者に紛れることができた。これから一ヶ月と少し、僕は北欧を中心に束の間の非日常を愉しむことになっている。24歳の働き盛りの若者が夏にひと月も休暇を取るなんて、実に贅沢なことであるに違いない。実際はインターネットを通して少しのパソコン仕事をするのだけれど、そんなことは毎日朝から晩まで会社に缶詰になっている企業戦士たちには到底理解してもらえやしない。

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【引きこもりの北欧紀行】第一章その2 今の時代を旅するということ

投稿者プロフィール

ちひろ
ことば、文字、文章。
それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。

文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。
そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。
私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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