【引きこもりの北欧紀行】第一章その2 今の時代を旅するということ

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はじめから読む 【引きこもりの北欧紀行】第一章 ストックホルムとヨーテボリ 静かな再獲得の旅 その1

ここで、機内サービスのCAが僕の席にやってきた。
 「お飲み物はダレですか?」と繰り返すオランダ人の彼女は、きっと何カ国もの日常会話を懸命に覚えたのだろう。そして、彼女もまた企業戦士であるに違いないのだ。会社ではなく、飛行機に乗って国を行き来する戦士。彼女は随分と楽しそうに働いている。僕は少し救われたような気分になる。

 「ありがとう」僕は一瞬遅れて日本語でそう言った。
 その頃には、彼女は通路を挟んで反対側のオランダ人の女性客とおそらく母国語で話し込んでいた。たぶん、息子がかわいいだとか、東京は物価が高いとか、台風なんてものがあって日本は大変だとか、そんなところだろう。

 日本を出る前、僕の出発を惜しんでくれた人たちが少なからずいた。特に僕の母親は、僕がいないひと月を思うとどうにも寂しくなってしまったらしい。彼女の若いころは(だいたい30年くらい前だ)、飛行機に乗って海外に旅行するということはそれこそ一大事だった。インターネットもない、航空券はばかみたいに高い、英語は頼りない。そんな中で日本人女性が一人で旅行するということは、きっと命を懸けた冒険に近いものであったのだろうし、残された家族の心配も大きかったのだろう。

 しかし、今はなんといってもインターネットがある。どこからでも情報収集が可能だし、メールや電話も世界中から問題なくしかも無料でできる。世界を繋いだこの「見えない網目」は、なんと世界を狭くしてしまったのだろう。
 僕らには今や、地球の裏側で起こっていることが、リアルタイムで透けて見えるのだ。それに、技術の発達や日本という国の力が強くなったことも手伝って、経済的にも海外は「手軽な」存在になった。僕がこの時代に生まれて実にありがたいと感じられるのは、こんな風に昔と今を比較した時なのだ。

実を言うと僕が北欧に来るのは二回目だ。三年前に九ヶ月ほど交換留学生としてスウェーデンの大学に通っていた時期がある。そのせいもあって僕にとっては馴染みのある国だ。
 今回の旅では、あまり観光らしい観光をするつもりはない。その土地の空気を吸い、本を読み、僕の散らかった頭のなかを整理整頓することを旅の目的としている。ここ数年の間で僕は相当に変わった。

 その変わりようと言ったら、まるでカエルが王子になったみたいな、それか王子が野獣になったみたいな、それくらいの大変身だ。それがいいのか悪いのかは正直言ってよくわからない。前のほうが上手く立ちまわれていた部分も確かにあるのだ。ただ、僕の個人的な所感というところに限定して言えば、ここから見える世界はクリアになった。その分小さな汚れも目についてしまうけれど、見通しが良くなったのだ。

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【引きこもりの北欧紀行】第一章その3 旅のしおり

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ことば、文字、文章。 それはとても恐ろしいものでもあり、うんと心強い味方でもある。 文字はマンガに劣り、写真は動画に劣ると言われる時代で、文字の集積だけがもたらしてくれる「情報」以上の無限の想像のための余白。 そんな文字の持つ力に心躍る方がいたら、ぜひ友達になってください。 私はそんな友達を見つけるために、物書きをしているのです。

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